応援団員
あきん さん
出身地 島根県 /  居住県 岡山県 /
入団日 2010-11-30
生まれた土地が大好きです
親記事タイトル
高島
== 高島の歴史 ==
  夕寒き  孤嶋に星を  数えけり   これは、石見地方(島根県西部)の俳壇の先達、近藤月村先生の句であり、孤島暮しの実感がよく表現された作品といわれている。 この不毛の孤島、高島に住まなくてはならない悲しい運命を背負った人々があった。 その移住の先人説として、「高島由緒」には、大永3年(1523年)、毛利元就の攻略に遭い、悲運を辿った出羽(島根県邑智郡)城主高橘(たかきつ)大九郎の一族が亡命漂着、この地を開拓したのが始まりとされている。 他に2,3の異説があるが、いずれも戦国武士の漂流説であり、時代もほぼ接近している。中世以来、人々は高島の南東部にある標高4,50メートルの僅かな傾斜地に住み、大自然の猛威と戦いながら僅かな耕地に甘藷、雑穀を作り、海藻、魚介類を採って 暮したのであった。この狭い高島は、生徳2年(1712年)にネズミの異常繁殖のため、耕作物に壊滅的被害を受け大飢饉に陥った。それ以来、島の人口が増えることを最も忌み嫌い、戸数を七戸以内とすることを不文律とした。高島は、もう一つの名を七戸島といわれ、「春潮や  神の置きたる  七戸島」と詠まれている。それ以後明治まで この七戸の掟は守られた。昭和に入って漸増し、最盛期の昭和35年には16戸、125人の人達が高島に住んでいた。昭和27年に電灯がともり同29年には村営(那賀郡 鎌手村)の定期船も就航し、ようやく文明の恩恵に浴することとなった。しかし、高度成長のもたらす僻地の過疎化の波には抗しきれず、昭和53年3月(1978)、全集落16戸が対岸の益田市土田町に集団移住するところとなり、約450年に及ぶ高島での生活の歴史に終止符がうたれた。

== 「お伊勢」にまつわる話 ==
 高島にもこの世の常として悲しい女の物語が伝えられている。 それはいつ頃のことであったか、お伊勢という娘がいた。男性なら誰でも振りかえって見たくなる程の美しい娘であった。その美しい娘が対岸の津田という所から高島に嫁いで来た。新婚当初は、島の生活も楽しく珍しかったが、やがて荒涼たる孤島の暮しに 飽きてきた。望郷の念やみ難く、何とかして島を抜け出せないものかと毎日が気の狂わんばかりだった。しかし、荒海3里を隔てた孤島では如何ともし難いことであった。ある日、娘にふと妙案が浮かんだ。島の周囲は1里である、3周できれば対岸に渡れると考えた。天気のよいある日、試みに島の周囲を泳いでみたところ遂に3周することに成功、喜び勇んで前後のわきまえもなく、そのまま対岸に向かって泳ぎはじめた。しかし、 海を知らない女の悲しさ、日本海の潮流には勝てず、必至の力泳も空しく対岸まであと半里の岩礁にたどりついた時は、疲労と安堵感で気を失いそのまま息が途絶えた。その時は、淡い弦月の光が悲しく石見の海を照らしていたという。村人はお伊勢をたいそう哀れみ、この岩礁に「伊勢島」と名づけたそうである。それ以来、このあたりを月夜の晩を航海すると、もの悲しいお伊勢の呼ぶ声が聞こえてくると語り継がれている。
2011年03月06日
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